介護で見たモノ、知ったモノ

            主幹 富田正廣


 小生の母が23年間の闘病の末、83歳でこの5月に他界した。その間、やはり介護の主役は‘わが女房殿’にほかならなかった。そして、それを支えたのが近くに住む妹であり、女房殿の何分の一もできなかった小生である。
 よく配偶者を一人で介護する妻や夫を病院や老健施設で見かけるが、苦労は並大抵ではない。介護は愛情と忍耐、そして協力体制がなければ、できるものではない。日本の社会現状から見れば、介護を施設から自宅へと重点を移す政策を取るが、経験から言えば反対するひとりである。自宅で介護する政策など高齢化と少子化が進む日本ではとても無理だ。老人が老人を介護し本来、介護されるべき介護者が介護をする社会が現実にあることを理解する必要がある。

 介護の第一は「愛情」である。小生の母は大正生まれで、戦後教育とはいえ、躾は厳しかったが、愛情豊かに育てられた。モノが無い時代だったが、ひもじい思いをした記憶はない。毎日、何がそんなに忙しいのかと思うほど、家事に、内職に母は働いていた。そのエプロン姿の母の愛情を一身に受けた小生だから、その愛情に応えたのかも知れない。

 第二に介護は「忍耐」である。60歳で自宅の庭で脳梗塞で倒れて以来、3度脳梗塞で倒れ両手両足が麻痺した。幸いにも痴呆も言語障害もなく、息を引き取る1週間前まで、唯一動く人指し指で「会話」を楽しんだ。自分が素直に母と向き合うまでかなりの時間を要した。体の不自由さから日々「すがる」ことが多くなってきた母から、一時は次第に遠ざかる息子でもあった。介護は時にして他人の気遣いにも反発する。だが、向き合えた時「言葉」が心の支えになる。愛情は忍耐の上にしか成り立たないのだ。

 第三に介護は「協力」である。「遠くの親戚より近くの他人」ということわざを特に実感した。遠くに2人の姉がいるが「いざ!」という時ほど当てにはならなかった。これが同じ母から産まれた子供かーと苛立った時期もある。友人が経験からこんな話しをした。「親が介護を必要になると、遠ざかる兄弟があれば、これを機会により一層結束する‘兄弟’もある」と言っていたが、残念ながら小生「きょうだい」は前者となった。それとは相反するかのように、いつも遠くで観察しているような隣近所の人たちが「いざ!」となると、あらゆることで力になる存在であることを実感した。
 そして最もお世話になったのは、病院の看護師さんや老健施設のスタッフだった。仕事とは言え、日々の母の世話には敬服し、その心遣いには心から感謝した。

 23年の介護でいろいろな経験や体験を繰り返したが、最後は晴れ々とした気持ちで母を看取ることができた。だが、残念なことに、この晴れ々しさに、水を指したのが「死亡手続き」のために訪れた役所である。市役所や支所職員は実に丁重な対応だが、国の出先職員は横柄である。どこの機関とはあえて指摘しないが、相手は退職間近かな男性だった。こうした特権意識の強い人間が、こうした制度に係わっているから、日本の高齢・福祉政策は形だけが先行するのだ。忍耐と愛情は当事者の問題だが、協力体制は社会が築かなければ、どうにもならない問題だ。死者の最後の窓口となる役所だけに、職員にも「ごくろうさまでした」という気配りが欲しいのである。公務員は国民の奉仕者であることを忘れてはならない。
                        (2003.6.6)