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3.11、大惨事の現場に立って
主幹 富田正廣


 東日本大震災の日から約3ヶ月が経った。フォトジャーナルのNさんと「警戒解除」が解けた6月7日、相馬市・新地町、そ して宮城県山元町の災害現地に入った。既にガレキのほとんどは撤去され、道路も意外にスムースに海岸沿いまで行けた。
 まず驚いたのは、松川浦に近い県道では大型漁船の無惨めな姿、昨年の夏に家族で買い物や魚介料理で訪れたばかり原釜漁港の「水産物直売センター」と「みよし食堂」界隈はほぼ壊滅状態。県道を挟んだ多くの民宿や食欲をそそる出店の賑わいはまるでウソのようだ。漁港周辺で後片付けに追われるショベルカーやバックホーの唸る音だけが響く。漁港を経て、太平洋に飛び出す鵜ノ尾崎灯台から一直線に伸びる絶景なる海岸道路も崩壊し、あのスリリングで爽快なドライブも当分はお預けだろう。

 “入り江”に広がる住宅地は目も当てられないほど悲惨だった。住宅も車も押し潰し、押し流し、団子か煎餅にする津波の破壊力は想像を絶する。隣接する新地町の釣師浜海水浴場周辺は無惨な工場や家々の痕跡が一面に広がる。ここはすべて津波がさらった後だと感じさせてくれるだけで、ここに人々の日々の暮らしが営まれていたとは想像がつかない。
あの常磐線「新地駅」は探すことが出来なかった。 お隣は宮城県「坂元駅」、ここに立って絶句した。駅は無く、ホームを跨ぐ陸橋とトイレ棟だけが辛うじて残った。ホームに立つと「乗車口6両」のステップだけが見え、着くはずの電車の線路は剔られ、深いくぼみに海水が溜まったままだ。ここに駅があったことを記す駅広場の「山元町総合案内板」だけ津波に打ち勝っていた。
最後に取った98枚目の一枚の写真は「島田商店跡」と書かれ移転先を示す案内板。ここで確かに人々の生活はあの3月11日、午後2時46分まで、日々変わらない生活が営まれていたのだ。(11.6.8)



【取材を終えて】
 1000年に一度とまで言われる大地震・大津波の惨事に遭遇した私たち。何をどうして、立ち向かえばよいのか。先が見えない日々が続いて3ヶ月が経った。奇しくも今日6月8日は管政権が誕生した日である。誕生わずか一年で、菅内閣は退陣を決意した。こんな大惨事の中での「政権争い」に奔走する政治家たち。日本の政治家はまさに三流である。「誰に何をどう託せばいいのか。日々をどう切り開けばいいのか」大惨事の現場に立って、本当に日本の行く末を恨んでならない。

 




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