マスコミ同士の醜い争い


  小泉首相の「改革無くして、経済繁栄は無い」の声高な掛け声で、先に日本道路公団、いまは郵政事業の民営化で論議が沸騰しているが、この“何でも改革”のあおりを受けたせいでもあるまいに、大物マスコミ同士の激しいケンカが天下の耳目を集めている。もともとマスコミ界には、仁義みたいな暗黙の了解が存在していた。別に規約とか申し合わせ、とかいう類ではなく、あくまで蔭の仕来りみたいなものである。それは「マスコミ同士では互いの不利益になるような暴露、あら捜しは取り上げない」というものだ。

 これまで、新聞はニュースの早さ、記事の中身の濃さ、正確さ、さらには的を射た論評などで競争することを旨としてきた。政治・社会に関する“表”舞台では、他業界を凌ぐような激しい戦い、いわゆる“スクープ合戦”を演じてきたのである。記者たちは他紙に載らない待ダネを求めて駆けずり回り、夜討ち朝駆けで骨身を削った。新聞社を挙げて特ダネを求めた。だが、新聞社自体のことになると、自体のネガティブな出来事、例えば社員の不祥事とか、会社の経営ミスなどは敢えてニュースにしなかった。新聞社と言っても会社自体は大きいものでなかったから経済ニュースにはなりえなかったこともある。考えてみると、こんな事はけしからん話ではあるのだが、“明日は我が身”の思いもあって、新聞社のことはニュースの埒外、という観念だった。

 それが、どうだ。ここ数年来、週刊誌の暴露戦術で堰を切ったように、マスコミ各社が同業他社の悪事を大々的に報道するようになった。そして今、天下の朝日新聞と天下のNHKが互いに「誤報だ」「NHKこそ政権にベッタリ」と、ののしり合っている。まるで芥川龍之介の「薮の中」だ。水掛け論の果ては多分、裁判に持ち込まれるんだろう。“下手なニュースよりこっちの方が面白い”などと言う向きもあるが、どっちが勝ってもマスコミの存在の軽さが問われてくるだろう。新聞もテレビも週刊誌も主観的であって、客観的に信用出来ない、という世論に傾いたとき、マスコミは一体どうするんだろうか。

 マスコミには「ニュースソースは明らかにしない」という憲法とでもいうべき“掟(おきて)”がある。ところが、朝日の主張を裏付ける証拠を明らかに出来ない理由に、この掟を使っている。これでは隠れ蓑ではないのか。裁判で「ニュースソース」を求められたとき、どうするんだろうか。どうも、天下の朝日の勇み足っぽい感がしてならないのだ。(2005・1・31)