漢詩「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」(ネンネンサイサイ花あい似たり サイサイネンネン人同じからず)が好きだったが、今年は胸にずしんと差し込んで来て、とても口ずさめない。県内各地でサクラの開花宣言が行なわれているが、ハナを見る人は同じじゃないという本県の太平洋岸や三陸海岸。ここでも自然は律儀だから、ちゃんとサクラは見事な花をつけているんだろう。それを見る残された人たちの気持ち。耐えられんね。自然は神様がお造りになったそうだが「自然の営みの中に、こんな残酷な自然現象も造られたのですか、これも自然の営みのうちなんですか」と神様に何十ペンも何百ペンも問い掛けてみた。でも、ご返事は無かった。神も想像できなかった出来事なのか。
しかも、福島県じゃ“神の摂理”に背いて灯した“第三の火”による原子力発電が予想外の惨禍を撒き散らしている。人間が住めなくなるような福島県になる可能性を見せつけているのだ。こっちは神様に聞いてみても仕方がない。だって神様が造った自然を人間が壊したんだから。かくして三重苦の福島県がいま全世界の同情と憐愍と蔑みと、そして嫌われの感情のうつぼの中にある。
ただ、なんとなく、腑に落ちないことがある。毎日毎日、原子力保安院や東京電力での発表や記者会見のニュースをテレビはただ垂れ流していて、県民を不安のどん底に置きっ放しにしている。ところが○○シーベルトだか、何んだか分からないが、専門学者の話しだと「あと20年も毎日飲食し続ければ人体に影響があるだろうが、今は命に関わりは無い」という発言をよく聞く。ということほ、80歳の高齢者を住み慣れた自宅から無理矢理、見知らぬ土地に避難させて、不自由な生活と医療を受けさせて命を締めさるというのは愚の骨頂なんじゃないのか。80歳のご老人は20年で100歳だ。そのまま自宅に住んでいて、放射能で20年後にお亡くなりになっても長寿全うもいいとこじゃないのか。政府が逆立ちし、官房長官が頭を下げて被災地をめぐっては避難を呼び掛ける、という構図は滑稽に思えてこないかい? 牛乳だってホウレンソウなどの野菜だって、食べるとその場でパタンキューと死ぬわけではない。なのに出荷停止なんて騒ぐから、かえっていらぬ風評を巻き起こすんだ。それを正義ヅラしたテレビのキャスターたちが、さも重大ニュースみたいにしゃべりまくる。どうだい、逆に一度「こんな程度の放射能なんか、なんでもありません。大いに食べて元気になって!」ぐらいのこと、言ってみてはどうかね。
(2011・4・20)
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