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「偲」「忍」「恩」の信夫山とは?

 「もう健康を考える年になったのか」と、信夫山をゆっくりと歩いた日があった。これまでも何回となく「登った」、というより「来た」信夫山だが、吹く風の音、木々のざわめき、鳥たちのさえずり、すべてがはじめての体験のように清々しく耳元でささやく。こんなに身近な所にありながら、ただボーッと眺めていた信夫山。街のど真ん中にこんな山がある場所って全国でもきっと少ないはずだ。小学校の「遠足」、親父に連れられてやっと登った「暁参り」、部活でしごかれた第一展望台までの苦痛のランニング、彼女とドライブした第二展望台、恩人の墓参りに来た墓地公園、会社や友人で来た花見シーズン、人生のすべてに関わってきたのには、本筋では何も分かってなかった信夫山の歴史。

 そんなある日、新聞に「信夫山エコフォーラム」の記事を見つけた。「信夫山の歴史と人々の係わり・・そして環境」と題して講演するのは、福島市で歴史編纂に取り組む鐵(くろがね)貞雄さん。
【写真上】信夫山を歩くにもまず歴史だ!」と早速、夫婦で参加した次第。2時間30分でどれだけ理解出来たか知らないが、信夫山の姿・形から、由来、歴史、そこに生きる人々と直に触れた貴重な時間を共有できた。信夫山を知れば、歴史に触れるたびに、楽しさもまた格別となるでしょうね。
では、皆さんと鐵さんの講演から信夫山【写真下】をちよっとだけ、おさらいしてみましょうか?。(聞き違っていたらご無礼を)

 標高275m(最近変わったとか)、周囲7.1・、東西2.7・、南北2.4mを信夫山と呼び、今も御山という名で親しまれていますが、もともとは「忍」「偲」「恩」が本当の呼び名とか。この信夫山が何時ごろから有名になったかというと、欽明天皇の時代(今から15
00年前)だという絵日記が記録として残っているといういうことです。また平泉の藤原家の合戦では、信達、安達、安積が戦火に巻き込まれ焼失、また600年前には鎌倉勢が福島の県庁付近にあった城を攻めた折り、自ら城に火をかけ会津坂下あたりに逃げ込んだようです。さらに403年前には松川の合戦(祓川はその名残り)で伊達政宗が信夫山に陣取った折りに、数々の神社・仏閣が焼失したそうです。伊達政宗の時代に信夫山は「青葉山」とも呼ばれた時期があったのです。そして昭和20年には信夫山に日本軍が「地下工場」を造った第二次戦大戦の歴史をたどり、現在は、観光などで賑わっているのです。

 ちなみに、信夫三山と呼ばれる所以は、西に西峰羽山(烏ヶ崎)、中に羽黒山、東に熊野山があり、それぞれ欽明天皇以来、山岳信仰の山として親しまれてきたのです。また、欽明天皇の皇后が7人の家臣、王子が6人の家来を連れてきたことから「六供七宮人」と呼び、これらの家来は御山村を作って、羽黒神社と黒沼神社のお祭りを後世に伝え、現在も「六供(ろっく)部落」を守りながら“暁参り”などの祀りを後世に伝えています。
 信夫山には平安、鎌倉、 南北朝時代から 信夫山を詠んだ和歌や遺跡が多く存在していることでも有名です。和歌の「偲ぶ」「忍」「恩」から「信夫」になったのは平安時代で、人を愛する歌が信達には多く134句あるそうです。皆さんも一度、信夫山の歴史をゆっくりと訪ねて、心を休めてはいかがでしよう。

主催者はNPO法人福島県未来ネット 代表者:赤間利晴
事務局 〒960-8153 福島県福島市黒岩字八郎内13番地の3

【参考ホームページ】
■信夫山散策のページ
http://www2m.biglobe.ne.jp/~leokoya/index.html
■信夫山
http://www7.plala.or.jp/t-aterui/fukushima/f-sinobuyama.htm