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アテネに立つことこそ金メダル!

 史上最多のメダル獲得数となったアテネオリンピックも17日間の幕を閉じて、2008年の“北京”へと夢を引き継いだ。お家芸の柔道で谷と野村が金に輝くと、「それに続け!」とばかりメダルラッシュが起きた。日本の各選手も世界の「ひのき舞台」で、臆することなく活躍した。
 オリンピックのさなか、母親の一周忌が過ぎたのを機に、盆中に形見の整理をした。その中に、東京オリンピックの記念誌3冊が眠っていた。オヤジの名前が刻まれていた。色あせてしまったが、実に40年前の真実を伝えた貴重な写真の数々だ。めくると当時の選手達の活躍が蘇ってきた。重量上げ、レスリング、柔道、体操、バレーボールなど日本は16個の金メダルを獲得した。

 当時、高校一年生でバレーボールに打ち込む毎日だったが、その日だけはどうしてもオリンピックが見たかった。1年全員で「今日は部活を休ませて欲しい」と申し出たとたんに、先輩に往復ビンタをくらった。見たかった“東洋の魔女”といわれた女子バレー選手は、鬼の大松監督とともに、「金メダル」というプレッシャーと戦っていた。陸上の華、男子マラソンの円谷幸吉選手も同じだった。劇的なドラマは結局、銅メダルとなった。円谷選手は、金メダルという“プレッシャー”に押しつぶされ、次のメキシコ大会を前に彼は「もう走れません・・」という遺書を両親へ残して自殺した。敗戦から19年が経っても、「国のための金メダル」という若者達が多かったのだと思うと、複雑な心境である。
 アテネで「まだ5位かよ!」と笑ってインタビューに応えていた男子マラソンの油谷繁選手の一言には心が救われた。40年前の円谷選手にも「銅メダルかよ!」という屈託のない言葉が飛び出す時代背景なら命も救われたろうに・・・。金メダルが取れなくて「国の皆さんに謝罪したい」と痛恨の表情でインタビューに応えていたある国の選手、40年前の日本がそこにあるようだった。女子バレー、ソフトボール、そして野球など、どの選手達も自分のためのオリンピックであり、メダルを取れなくてもアテネという青空の下で“青春”が輝いたのだ。そこに立つことこそ金メダルだ!
 4年後は北京だ!飛躍する中国の姿を110メートルハードルでアジア初の金メダリストとなった劉翔選手が証明した 東京オリンピックで中国が取ったメダル数はゼロ。アテネで見たものは、大国アメリカと肩を並べる中国の無限の力だった。(04.8.31)
写真−福島民報社が100円で発行した記念誌と銅メダルに輝いた円谷選手》